大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成2年(ワ)9433号 判決 1991年9月06日

原告

辻守康

右訴訟代理人弁護士

小倉良弘

被告

江尻光孝

右訴訟代理人弁護士

石川正明

主文

一  原告の第一次請求を棄却する。

二  被告は原告に対し、原告から金七〇〇万円の支払いを受けるのと引換えに、別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

(第一次請求)

被告は原告に対し、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を明け渡せ。

(第二次請求)

被告は原告に対し、原告から金七〇〇万円の支払いを受けるのと引換えに、本件建物を明け渡せ。

第二事案の概要

一本件は、本件建物の賃貸人である原告が、賃借人である被告に対し、解約申入れによる賃貸借契約の終了を理由に、本件建物の明渡を求める事案であり、争点は、右解約申入れの正当事由の存否並びにその補強条件としての立退料提供の適否及びその金額の点である。

二争いのない事実

1  原告は、昭和三五年一二月二八日、本件建物を、賃料月額三万円、賃貸借期間同年同月三一日から昭和四一年一月一日までの約定で、被告に賃貸した(以下、右賃貸借契約を「本件賃貸借契約」という)。

2  右賃貸借期間経過後、本件賃貸借契約は期間の定めのないものとなり、賃料は、昭和四一年一月分以降月額四万円に、昭和四八年六月分以降月額四万五〇〇〇円に、昭和五一年五月分以降月額六万円にそれぞれ増額改定された。

3  原告は、被告に対し、平成二年五月二九日到達の書面をもって、本件賃貸借契約を解約する旨の申入れをした。

三争点

1  原告の主張

(一) 原告は、広島大学医学部教授として、広島市内にある公務員宿舎に妻と二人で居住していたところ、定年が近いこともあって、平成二年九月三〇日をもって退官し、同年一〇月一日付で東京都三鷹市所在の杏林大学教授として勤務することになり、住居を広島から東京に移転する必要が生じた。原告は、杏林大学に勤務するかたわら、週に一度虎ノ門病院に顧問として勤務しているほか、本件建物とは目と鼻の先にある都立駒込病院及びガンセンターからも招聘を受けている。

(二) 被告が本件建物の明渡に応じないため、原告夫婦は、千葉市都町所在の次男宅に同居している。右次男宅は、敷地こそ原告の所有であるが、建物は次男が結婚に際して新居として新築したものであり、間取りの点からいっても二世帯の同居に耐えるものではなく、右同居はあくまでも暫定的なものである。

(三) また、右次男宅は千葉駅からバスで二〇分ほどのところにあり、ここから杏林大学までの通勤には、バスと電車を乗り継いで片道二時間二〇分ないし四〇分を要するところ、原告の同大学での日常勤務は午前八時半から午後八時半頃までであるため、原告は、やむなく、週のうち月・火・木・金曜日は教授室のソファーをベッド代わりにして泊まり込み、水曜日と土曜日に次男宅に帰るという不自然な生活を強いられている。このような異常な生活は昭和六年生まれの原告にとって肉体的にも過大な負担となっているばかりでなく、右のような通勤時間の制約により、前記都立駒込病院及びガンセンターからの招聘に心ならずも応じられない結果となっている。

(四) 一方、被告の本件建物の利用を必要とする事情は、原告ほど切実なものではなく、被告にとって本件建物でなければならないという事情はない。

(五) 加えて、原告は、被告が昭和四〇年六月頃から昭和四二年七月頃にかけて一時家賃を滞納し、昭和四〇年一一月頃には本件建物の一部を原告に無断で第三者に転貸した際、そこに至った被告の事情を考慮して、本件建物の明渡を求める法的手続を差し控え、被告一家の窮状を救った経緯があるのであって、被告が、過去に原告から好意を受けたことを無視して、本件建物を必要とする原告の事情を顧みないのは不当であり、かかる事情は正当事由の存否を判断するうえにおいて十分斟酌されるべきである。

(六) 以上の次第で、原告のした本件解約申入れには正当事由があるというべきであるが、仮に不十分であるとされるならば、原告は、立退料として七〇〇万円を被告に支払う用意がある。この額は現行賃料額の一〇〇か月分に当たり、本件建物の立退料として十分な額である。

2  被告の主張

(一) 被告は、本件建物賃借当時、妻(大正六年生まれ)、長女(昭和二〇年生まれ)及び長男(昭和二三年生まれ)の四人で本件建物に居住していたが、長男が結婚して独立してからは、妻及び長女と三人で居住し、現在に至っている。

(二) 被告は、株式会社総建という会社の代表取締役として年額四二〇万円ないし四五〇万円の役員報酬を得ているだけで、もはや老齢で他に収入の途がないため、本件建物の一階店舗部分でワープロ・パソコン教室等の事業を営む長女の収入に頼っているが、右事業の顧客は本件建物周辺の狭い範囲に限られているので、本件建物は被告一家の生計を支えるうえで重要な拠点となっており、もし転居するとすれば、右事業の継続も危うくなるばかりでなく、転居費用はもとより転居後も現行家賃と新規家賃との差額など長期にわたり多額の負担を強いられることになる。

(三) 本件建物はもともと原告が薬剤師である妻に薬局をやらせる計画で建築したものであるが、何らかの事情で右計画が中止となったため、原告は、賃貸当時からここに居住する意思がないことを表明しており、できれば被告に買い取ってほしいと要望していた。したがって、被告はここに永住できるとの期待をもって本件建物を賃借し、買取資金の調達にも努めたのであるが、昭和四〇年頃薬事法違反に問われて服役を余儀なくされ、その後もこれに関連する負債の整理に追われたため、結局本件建物を買い取ることができないまま、今日まで三〇年以上もここに居住してきたのである。

(四) これに対し、原告は十分に成功している医師であり学究であって、被告に比してはるかに高い収入を得ているはずであるし、招聘先による住宅の確保ないし住居費の支給が期待できるはずである。また、被告には本件建物の家賃の増額に応ずる意思があるので、右家賃収入等をもって原告が再就職先の近くに住居を賃借することも十分可能である。更に、原告は千葉市内に居宅を所有していたが、東京方面への転勤が予想される時点で右居宅を息子名義で改築させ、敷地を無償使用させるに至っており、一方においてかかる行為に出ながら本件建物の自己使用の必要性を主張するのは不当である。

(五) 以上の次第で、再就職のためとはいえ、新たな住居を比較的自由かつ容易に定め得る原告には、三〇年もの長期間にわたり本件建物に居住してきた被告を排除してまで、本件建物に住まなければならない必然性はないというべきである。

(六) 仮に百歩譲っても、原告の本件建物明渡請求の正当性は、被告の居住の必要性によって大幅に減殺されているものというべく、これを補完するには、借家権価格又はこれに準ずる金額の補償を要するものというべきである。しかして、本件建物の借家権価格は四八〇〇万円を下るものではなく、原告の提供する七〇〇万円は右補償として極めて不十分である。

第三争点に対する判断

一<書証番号略>、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次のような事実が認められる。

1  原告は、広島大学医学部教授として勤務し、広島市内にある公務員宿舎に妻と二人で居住していたところ、平成二年九月三〇日をもって退官し、同年一〇月一日付で東京都三鷹市所在の杏林大学に教授として再就職することになり、これに伴い虎ノ門病院及び都立駒込病院等からも非常勤の嘱託医として招聘を受けた。そこで、原告は、被告に対し、同年五月二九日配達の内容証明郵便をもって、右事情により本件建物を使用したいので本件賃貸借契約を解約する旨の申入れをした。

2  しかし、被告が本件建物の明渡に応じなかったため、原告は、平成二年一〇月一日以降、妻とともに千葉市都町所在の次男宅に同居し、杏林大学に勤務するかたわら、虎ノ門病院にも週に一度勤務している。前記都立駒込病院は本件建物から至近距離にあるため、本件建物に居住できれば同病院からの招聘を受諾できるが、本件建物の明渡を得られないため、原告は、やむなく招聘を断っている。

3  千葉市都町の次男宅は原告所有の土地上にあるが、右建物は、以前右土地上にあった原告所有の建物を結婚を控えた次男が平成二年八月頃取り壊して、新居として新築したものであり、次男の所有である。右建物は、間取りの点からいっても二世帯の同居を予定しておらず、狭いため、原告は家財道具等の一部を広島に置いたままにしているうえ、原告夫婦との同居を予想していなかった次男の妻と原告の妻との折り合いも悪くなっており、右同居を将来にわたって継続することは困難な状況にある。

4  また、右次男宅から杏林大学までの通勤にはバスと電車を乗り継いで片道二時間二〇分ないし四〇分を要するところ、原告の同大学での日常勤務は午前八時半から始まり午後八時半頃までになることが多いため、原告は、やむなく、週のうち月・火・木・金曜日は教授室の客用のソファーをベッド代わりにして泊まり込み、水曜日と土曜日に次男宅に帰るという生活を送っている。昭和六年生まれの原告にとって、このような生活は身体的にもきつく、原告の健康にも悪影響が生じ始めている。

二次に、<書証番号略>、原告及び被告各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次のような事実が認められる。

1  原告は、昭和三五年一二月本件建物を被告に賃貸した当時、被告が望むならばこれを買い取ってもらってもよいと考えており、賃貸借契約書<書証番号略>にも、特約条項として、五年の賃貸借期間満了時において原告が本件建物を売却したいときは被告と優先的に相談する旨の条項が入れられた。

2  被告は、本件建物で薬局を営むかたわら、薬品会社を経営していたが、右会社の製造販売した薬品が薬事法違反に問われ、裁判の結果、昭和四〇年頃被告が収監されるに至った。被告は当初右事情を原告に秘していたが、同年六月頃から本件建物の賃料の支払いを延滞するようになり、加えて、収入の途を閉ざされた被告の妻が本件建物の一部を無断で第三者に転貸する事態となった。原告は、被告から支払われる賃料を銀行への借入金返済に充てていたことから、被告の妻に右事情を述べて、賃料延滞の解消と転借人の立退きを要求し続けた。被告は昭和四一年七月頃出所し、その後転借人は立ち退いたものの、賃料の延滞状態は解消されず、昭和四二年七月頃には一一か月分の賃料が未払いとなっていた。右賃料延滞が解消されたのは昭和五一年五月のことであるが、この間原告は、被告の窮状に理解を示して、契約解除等の法的手続をとることを差し控えた。

3  原告は、昭和五三年九月、東京都内の医科大学に進学した長男を住まわせたいとして、被告に対し本件建物の明渡を求めたが、被告の容れるところとならず、結局、被告の紹介したアパートに、被告から受領する賃料額よりも約三万円高い家賃を支払って長男を住まわせた。その後、原告は、長男が本件建物に近い東京大学医学部大学院に進学した昭和五八年四月と長男が結婚した昭和六一年五月にも、被告に対して本件建物の明渡を求めたが、その都度拒否された。また、昭和六〇年には原告に東京都内の医科大学への招聘話が持ち上がったので、原告は、同年五月、被告に対し本件建物を明け渡すよう求めたが、被告はこれを拒否し、昭和六二年頃には原告が前記千葉市の建物への転居を被告に提案したが、被告の容れるところとならなかったため、原告は結局右招聘を断るに至った。

4  現在、本件建物には被告夫婦及び長女文代が居住している。被告は、建築設備機材等の販売等を目的とする株式会社総建の代表取締役として、手取り月額約四五万円の役員報酬を得ている。右会社の登記上の本店は本件建物に置かれているが、実際の業務は別のところにある事務所で行われている。被告の長女文代は本件建物の一階店舗部分でワープロ教室を営んでいるが、その生徒は本件建物の近くにある女子短期大学の学生及び前記都立駒込病院の看護婦が中心である。

5  被告が本件建物を明け渡さなければならないとした場合、被告一家が居住でき、かつ、長女のワープロ教室を開くことのできる賃貸建物を本件建物の近辺に求めると、月額二二、三万円の家賃負担となる。

三以上の事実に基づいて考えると、原告は、杏林大学への再就職に伴い、同大学への通勤に便利な本件建物を自ら使用する必要に迫られており、本件建物に居住できれば、そこから至近距離にある都立駒込病院からの招聘にも応じられることになり、自己使用の必要性は極めて大きいものと認められる。他方、被告の側についてみるに、被告一家が三〇年以上もの長きにわたって本件建物に居住し、これを中心として生活関係を築いてきたことは、たしかに無視できない事情ではあるが、これとても本件建物を絶対に必要とする事情とまでは考え難いところであるし、被告の経営する前記株式会社総建は、その登記上の本店こそ本件建物に置かれているものの、実際の業務は別のところにある事務所において行われており、長女のワープロ教室についても、本件建物でなければ開設できないという事情があるとは認められない。

そうすると、被告一家が本件建物から立ち退いて他に転居先を確保するのに要する経済的負担の一部を立退料として原告に負担させることにより、それを補強条件として本件解約申入れの正当事由を肯定するのが相当である。しかして、本件の場合、右経済的負担は、転居先を新たに賃貸することによって生ずる賃料の差額負担(この場合、本件建物の賃料が昭和五一年五月以来月額六万円に据え置かれており、昭和六一年一月以降被告において月額七万円に増額して供託していることを考慮に入れても、かなり低額であることを斟酌するのが相当である。)、敷金・礼金等の一時的支出及び引越費用等が主なものであるところ、その一部を原告に負担させるための金額として、原告の申し出ている七〇〇万円は相当なものと認められる。この点について、被告は、いわゆる借家権価格又はこれに準ずる金額の補償を要する旨主張するが、採用することができない。

四そうとすれば、本件賃貸借契約は、本件解約申入れの日から六か月を経過した平成二年一一月二九日限り終了したというべきであり、原告の本訴請求は、被告に対し原告から七〇〇万円の立退料の支払いを受けるのと引換えに本件建物の明渡を求める限度において理由がある(無条件の明渡を求める第一次請求は理由がない)。

なお、仮執行の宣言は相当でないので、これを付さないこととする。

(裁判官魚住庸夫)

別紙物件目録<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例